Masuk朔弥さんが病室を出てから、十分も経っていなかった。 看護師が窓のブラインドを下ろしに来た。正面玄関だけでなく、病棟の裏口にも記者が集まっているらしい。 「病室の階までは上がれませんから、安心してください」 そう言われても、廊下で足音が止まるたびに扉を見てしまう。 ベッド脇のタブレットには、城戸さんと私の名前が並んだままだった。記事の閲覧数は、画面を更新するたびに増えている。 そこへ、新しい通知が重なった。 『御門社長夫妻、すでに離婚合意か――署名済み離婚届を独占入手』 記事を開くと、見覚えのある紙が映った。 夫の氏名、妻の氏名。私の筆跡で書かれた、高瀬真尋という名前。 離婚を受け入れた日に、私が署名して朔弥さんへ渡した離婚届だった。 写真の一部にはぼかしが入っている。それでも、署名欄と日付は読めた。 記事には、御門家に近い人物の証言として、私たちは以前から結婚生活を終えることで合意していたと書かれている。その直後から、私が城戸さんのホテルへ出入りするようになった、とも。 仕事の打ち合わせで会った日まで、密会に変えられていた。 私を知らない人がこれを見れば、信じるだろう。 離婚が決まった妻が、取引先の男へ走った。お腹の子の父親まで、その男かもしれない。 署名入りの離婚届は、その筋書きを信じさせるには充分だった。 タブレットの縁を強く握った。硬い角が手のひらへ食い込む。 あの日、私は城戸さんのために離婚届へ署名したのではない。朔弥さんから離婚を告げられ、受け入れるしかないと思ったから書いたのだ。 私が結婚を諦めた日の痛みを、不倫の証拠に使われている。 スマートフォンが鳴った。朔弥さんだった。 「記事を見たか」 「はい。この写真、本物です」 「俺が持っていた離婚届だ」 「どこに置いていたんですか」 「屋敷の書斎だ。鍵のかかる引き出しに入れていた」 朔弥さんの後ろで、何人もの声と電話の音がしている。もう会社へ着いたのだろう。 「あの部屋へ入れる人は?」 返事が遅れた。 「……母さんは、屋敷中の予備の鍵を管理している」 「では、お義母様が流したんですか」 「まだ断定はできない」 以前なら、その言葉だけで、また母親をかばうのかと思っただろう。 「だが、母さん以外に離婚届の
すぐには答えられなかった。 悪いところなら、いくらでも浮かぶ。 何も説明せずに離婚を告げた。一条さんを私の下につけ、問題を起こすたびに私を責めた。城戸さんとの関係を疑い、妊娠がわかると、今度は榊原さんへ私の仕事を渡そうとした。 守るためと言いながら、私の仕事も、家も、結婚まで取り上げようとした。 「妊娠がわかった後、榊原さんへ私の仕事を渡す案を認めたのも、あなたです」 「ああ。負担を減らすつもりだった。榊原が澄麗の依頼で君の席を狙っていたとは知らなかった」 「知らなくても、仕事を渡したのはあなたです」 「そうだ」 言い訳をしないところは、いいところに数えてもいいのだろうか。 だけど、同じくらい、大好きだと思うところもある。 社長室で抱き合ったこと。二人で並んで戦った株主総会。不妊治療で何度も傷ついて、それでも二人でここまで来た。 私が眠れない夜は、眠ったふりをしても気づく。私が大丈夫だと言っても、無理をしていればすぐにわかる。 それに、赤ちゃんの心拍を初めて聞いた時の、あの顔。 泣いていないと言い張りながら、私の肩へ顔を伏せた。 さっきも、一条家を敵に回して、私と子どもを家族だと言った。 つらかったことと、幸せだったことを、もうきれいに切り分けられなくなっていた。 ひどい人だ。今もあのときのことを思い出すと腹が立つ。 それでも、やっぱり好きだった。 許さないまま、この人から離れたいわけではない。 でも、ここで許すと言ったら、私が傷ついた時間まで簡単に終わってしまう気がした。 どうするべきなんだろうか。 朔弥さんに手を握られた。 何も言わず、私をじっと見つめている。 急かされてはいない。それでも、何か答えなければと思った。 「私は――」 激しいノックと同時に、病室の扉が開いた。 「社長、失礼します」 秘書室の若い社員が、息を切らして立っていた。手にしたタブレットを胸の前で抱えている。 「社長、記事が出ました」 「何の記事だ」 「奥様と城戸社長が不倫関係にあり、お腹の子も城戸社長の子ではないかと」 「違います」 思わず、朔弥さんを見た。 以前、城戸さんとの関係を疑われたことを思い出した。 「……わかってる。疑ってない」 「はい」 握られた手に力がこ
「そうだ」 驚きはなかった。 『手放したくない。守りたい』 以前、朔弥さんはそこまで言った。でも、離婚を切り出した朝に、なぜ一条さんの入社まで告げたのかは、ずっと気になっていたのに、聞けないままだった。 『離婚しよう』 『仕事の体制も変える。一条澄麗を入れる』 あの言葉を思い出すだけで、今も指先が冷たくなる。 「なぜ、この二つを一緒に言ったんですか」 「澄麗との縁談を断った翌日、一条側から融資を見直すと連絡が来た。母からは、君の父親の事務所にも影響が出ると言われた」 「だから私と離婚しようとした」 「ああ。君を御門から外し、一条とは俺一人で話をつけるつもりだった」 勝手すぎて、すぐには言葉が出なかった。 「……では、一条さんを会社へ入れたのは」 「縁談を断る代わりに、一条側から求められた。社内へ入れれば、両家の関係は続いていると示せる」 「それで、私の下につけたんですか」 「それは俺が決めた」 朔弥さんの両手が、ひざの上で組まれた。 「君の下なら、澄麗も勝手なことはできないと思った。間違ったことをしても、君なら止められると」 「私を守るために、私の仕事場へ一条さんを入れたんですね」 「……そうだ」 ずいぶん便利に信頼されたものだ。 「嫌なら俺のそばに置く、とも言いました」 「業務上の配置の話だった」 「離婚を告げた直後に、次の花嫁候補を俺のそばへ置くと言われて、私はどう受け取ればよかったんですか」 朔弥さんは答えなかった。 「一条さんが資料を勝手に変えた時も、あなたは最初に私を責めました」 「あの時は、母から、君が澄麗を大勢の前で責めて泣かせたと聞いた」 「確認もしないで信じたんですか」 「一条家を怒らせたくなかった。それに、君なら仕事を立て直せると甘えた」 ようやく、きれいではない答えが出た。 「私なら傷つけても、翌朝には資料を直していると思ったんですね」 「ああ」 「最低です」 「わかってる」 「城戸さんとの会議を一条さんに奪われた時も、最初に責任を問われたのは私でした」 「その場で、澄麗を切れば一条が動くと考えた。だが、あれは俺の判断が遅かった」 「案件から外した後も、一条さんを慰めていました」 「泣いたまま一条家へ帰せば、また話を大きくされると思った」 「そして私は
「こちらがその気になれば、御門などいつでも潰せる」 最初に声を上げたのは、冴子だった。 「雅臣さん、それは話が違うでしょう。今日は両家に傷がつかないよう、話を収めに来たのではないの」 「話が違うのはこちらだ!」 雅臣が冴子をにらんだ。 「あなたが真尋さんを離婚させ、澄麗を朔弥さんの妻にすると言ったから、こちらは御門を支えてきたんだぞ」 病室に、白い花の匂いが残っている。 誰も私には言わなかった約束が、当然のように口にされた。 「約束ではありません。お互いの家にとって望ましいとお話ししただけです」 「その話を信じたから、澄麗は待っていたんだ!」 「待てとは言っていません。まして、階段から押しなさいなんて、誰が言うのです」 澄麗が、落とした花を拾おうとした姿勢で止まった。 「……お義母様?」 「そう呼ぶのはやめてちょうだい」 冴子の返事は早かった。 澄麗の顔から、今度こそ作っていた表情が消えた。 「お義母様が言ったのよ。わたくしこそ朔弥さんにふさわしいって。真尋さんは子どももできないし、家格も釣り合わないから、すぐに離婚するって!」 「私は、あなたが人を殺そうとするほど見境のない娘だとは思わなかったのよ」 「澄麗をその気にさせたのはあなただろう!」 雅臣が、床に散った白い花を靴で踏んだ。 「孫ができたとわかった途端、うちの娘を切るつもりか」 「この子は御門の後継です。澄麗さんのために失うわけにはいきません」 冴子の視線が、私ではなく、お腹に下がった。 嫁を交換する話から、今度は子どもの取り分の話へ変わった。 「二人とも、もう黙れ」 朔弥さんが、私のベッドと彼らの間に立った。 「離婚も、再婚も、あなたたちが決めることではない」 「できるものなら、やってみろ」 冴子が顔を上げた。 「朔弥、何を言っているの」 「母さんは、一条家を病室に入れた。真尋に事故だと書かせるために」 「私は両家を守ろうとしたのよ」 「真尋は、まだ自分でトイレにも行けない」 朔弥さんが振り返った。 「そんな真尋の前に、押した人間と金を並べた。それが母さんの守り方か」 雅臣が、朔弥さんの言葉を遮った。 「会社だけで済むと思うな」 彼の視線が、私と城戸さんの間を往復する。 「社長夫人と提携先の男性との
私たちの反応など、最初から聞く気はないらしい。 朔弥さんが口を開く前に、弁護士は用意してきた説明を続けた。 「その点を双方で確認し、今後は口外しないという合意書です。治療費と休業中の補償は、一条側で全額負担いたします」 弁護士が、書類とペンを私の前へ滑らせた。 謝りに来たのではない。「事故でした」と、私自身に書かせるために来たのだ。 金額の欄には、見たことのない桁が並んでいた。 数字を見た瞬間、階段で背中を打った痛みが戻った。お腹を押さえ、この子だけはと願った時間まで、この金額で買えると思っている。 私の仕事を奪った時と同じだ。 この人たちは、お金を払えば、起きたことまで自分たちに都合よく変えられると思っている。 「私とこの子が死にかけたことに、値段をつけるんですか」 澄麗の父は私のお腹を見た。 「お子様の心拍は確認できたと伺っています。であれば、両家が傷つく形にする必要はないでしょう」 「傷ついたのは家ではありません」 声が掠れた。 それでも、澄麗の父から目をそらさなかった。 「私です。私の子です」 隣で、椅子が大きな音を立てて倒れた。 朔弥さんが立ち上がっていた。 合意書をつかみ、真ん中から破る。二枚、四枚、それでも足りないように、もう一度引き裂いた。 「心拍があれば、押してもなかったことにできるのか」 「御門社長。感情的にならずに――」 「俺の妻と子どもを殺しかけた人間が、この病室にいるんだぞ!」 朔弥さんの怒鳴り声を、初めて聞いた。 澄麗が抱えていた花束を取り落とす。白い花が床に散った。 「全員、出ていけ」 「朔弥さん、わたくしはあなたのために」 「俺の名前を呼ぶな」 澄麗の唇が開いたまま止まった。 澄麗の父の顔からも、余裕が消える。 「娘に向かって、なんという口のきき方だ」 「真尋を階段から突き落とした人間です」 「澄麗はそんな娘ではない!」 澄麗の父が、破れた合意書を朔弥さんの足元へ投げた。 「非常ベルの中で混乱しただけだ。そもそも、娘をあそこまで追い詰めたのはあなたでしょう」 「俺が?」 「澄麗は幼い頃から、あなたの妻になると信じて生きてきた。それを突然、別の女と結婚して恥をかかせた。娘がどれほど傷ついたと思っている!」 押された私より、押
骨折した左腕を三角巾で吊った榊原さんが、右手で差し出した紙には、日付と金額が並んでいた。 私の担当を減らされた日。 城戸さんとの写真が流れた日。 妊娠がわかったあと、澄麗が会社へ来た日。 そのたびに、一条家の関連会社から榊原さんへ金が動いている。 「何を依頼されたんですか?」 「いわゆる別れさせ屋です」 別れさせ屋。 ドラマの中だけに出てくる仕事だと思っていた。 まさか、自分の結婚が標的になっていたなんて。 榊原さんの右手が、三角巾から出た左手の薬指を覆った。 指輪はない。それなのに、根元だけが細く白い。 すぐに手を離し、何事もなかったように右手を膝へ載せる。 「高瀬さんと御門社長を離婚させる。そのために、あなたから仕事と信用を奪うよう依頼されました」 「私の担当を減らしたのも」 「仕事から退かせるためです」 「城戸さんとの写真は」 「不倫を疑わせるためです」 「澄麗さんが会社へ来たのは」 「あなたの代わりはいると、見せつけるためです」 全部仕組まれていた。 仕事を奪われたことも、城戸さんとの関係を疑われたことも、澄麗が当然のように私の席へ入ってきたことも。 私が自分から退職し、離婚を選ぶように。 そうなれば澄麗は、何も知らない顔で朔弥さんの隣に座れる。 「城戸さんの推薦状もですか」 「はい。城戸さんの署名は本物ですが、説明された目的が違います」 私の仕事が足りなかったから、席を奪われたのだと思っていた。 妻として足りないから、若くて家柄のいい澄麗に代えられるのだと。 全部、そう思わせるためだった。 悔しさで、紙の端を強くつまんだ。 城戸さんが頭を下げた。 「確認が足りませんでした」 「城戸さんまで謝らないでください」 「私の名前で、高瀬さんの席を奪われた」 「城戸さんの名前を使ったのは、榊原さんです」 榊原さんが、まっすぐ私を見る。 「はい」 「あなたにも、腹が立っています」 「当然です」 本当に可愛げがない。 でも、階段では私をかばった。 そして、その腕を折った。 朔弥さんが書類を閉じた。 「この証拠は、警察と法務へ渡す」 榊原さんが答えた。 「警察には、昨夜すべて話しました。証拠も渡しています」 私は、胸元に吊られ
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな
反抗には、たいてい請求書がつく。 翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「こ
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門







